コミュニケーションのみが重要なのであれば最初からウォータービジネスでもやった方がいいのではないか
正直、コミュニケーション能力さえあれば誰でもそこそこは稼げる時代である。
というと色々と誤解を招くかもしれないが、本当にそうなのだから仕方がない。
で、ここでいうコミュニケーション能力とは要するに他者に突撃できるかどうかである。
本当にそれだけである。もちろん細かいことを言い出せばいくらでもあるが、まずそれができるかどうか、これが本当に色々なものを分けるのである。
もちろん何をやればいいのか分からないと難しいが、そういう人は引く手数多だから誰かが呼んでくれるだろうし、ついていく人さえ間違えなければそう失敗はしないだろう。
ただ、この手の人がなぜ引く手数多なのかというと、あまりいないからであって、そういうプレミアムな人間になろうというのは中々難しいのではないか。
それでもコミュニケーションで食っていきたいというのなら、ウダウダ考えていないでウォータービジネスでもやった方がいいのではないか。
なぜウォータービジネスでもらえるお金がいいのか。それは昔から人間の恥を売ってきたからだ。つまり、一人の人間が見せる恥というのはそれだけ価値のあるものと見なされていたわけだ。
今はどうだろうか。多くの人が恥をかけという。大した対価ももらわないままに。こうなると恥をかくことの価値は下落する。ウォータービジネスの価値も下落する。もらえるお金も当然減る。価値が下がり当たり前になればその辺りの接客業と変わらなくなるからだ。
今はその限りではないが、今後そうなるかもしれない。
で、ウォータービジネスで売っているものはコミュニケーションだけである。それ以外は正直言ってないに等しい。おまけだ。
コミュニケーションのみが重要であるというのは、実質ウォータビジネスと一緒なのである。だからその辺の仕事とかでコミュニケーションのみ重要視されるようになると、当然ウォータービジネスの価値は下がり、結果的にコミュニケーションの価値も下がる。
繰り返すが、ウォータービジネスでお金をたくさんもらえるのは恥を売る仕事だからである。で、恥の価値が下がればウォータービジネスの価値も下がり、多分お金も安くなる。
で、何が起こるかというと世間一般の人間が世間一般の人間に対してウォータービジネスの人間に対して求めるようなことを求めるようになる。
やや乱暴だが、恥の価値が下がるとはそういうことだ。
コミュニケーション以外の何かがあるからこそプロなのだ。ウォータービジネスはコミュニケーションしかない。だからコミュニケーションのプロではある。
コミュニケーションのみ重要であるとはそういうことだ。それはつまりこの世のあらゆるものの価値の消失を意味する。
どうせ価値などないのなら、最初からウォータービジネスをやった方が良い。
心を診る人がいなくなった
https://twitter.com/serebento/status/1213687861267980288?s=21
精神病は脳の病気という認識が定着してきている。じゃあ、心は脳なのか、いやいやそんなことはないだろう。そう単純な話でもないだろう。
https://twitter.com/makino1121/status/1155417747053936645?s=21
じゃあ文学はどうなのかというと、中身よりも文体に寄り添っているという感じ。
ファッションと発達障害と高次脳機能障害
自身を何らかの精神障害に当て嵌めて騙ることはそう珍しいことではなくなった。誰もが一度は自分の病みを語ったことはあるのではないか。例えば発達障害だからとか。
ただ、そういう人を見るとかなり辛くなってしまうのは、医療なり心理なり、福祉や介護でもそうだが、基本的に精神病は脳の病として教わるからだ。メンヘラという言葉さえ嫌いな人間は多いが、まだ心の病といわれれば救いようがあるが、脳の病といわれるとあまりにも救いようがない。そして医療なり何なりの世界の人は習ったことを忠実に実行している人であるほど、精神病を脳の病と考えているわけであるから、患者は心の病と思って自身を語っているのに、あちら側の人間は脳の病による症状としてその語っていることを捉えている可能性が非常に高いわけで、こうなると何を語っても、語れば語るほどに救いようがない。まあ、背景を鑑みれば救いようがないというだけで、現場はもっとふわっとしているだろうけれど、悩みの深い人ほどやはり背景について考えてしまうと思うのだ。メンヘラと医師、メンヘラとカウンセラー、メンヘラと支援者。この垣根について考えてしまう人はそもそもはじめからメンヘラなど自称しない方がいい。
高次脳機能障害という名称がある。興味のある方はネットで調べてもらいたいが、高次脳機能障害と精神障害と、一体何が違うのか、と問われると答えに窮する人間は多いのではないか。
高次脳機能障害は認知障害と社会的行動障害に分けられるが、一例として社会的行動障害ならば、近年の研究により前頭葉の欠損など、脳の明らかな損傷を原因とすることが分かっている。そして症状的には精神障害と共通するものが多い。
どうだろうか。メンヘラと呼ばれる内は耐えられても、脳の障害としてはっきりと認知されたとき、耐えられるだろうか。世間の目は冷たいし、専門家こそ冷たい目線で見ている。それは体系的に医療や心理や福祉を習えば習うほどにそう冷たくなるように教わるのだから、仕方がない面がある。
安易にメンヘラを名乗って特にそんなつもりもないのに他人に脳障害だなんて認知されてしまったら、あなたは耐えられるだろうか。私ならとても辛い思いをすると思う。そして事故による明らかな脳の損傷とかではない限り、今のところ脳障害といいつつMRIなどで脳の損傷をくっきりと確認することが難しかったりするのだ。脳障害といいつつ。
目視で脳の損傷や欠損が確認できないのならそれは脳障害とは呼べないのではないかと思うのだが、今のところ精神病は脳の病であると習うのだからどうしようもない。
脳の病であると考えている人間に心の悩みを相談するくらいバカバカしいことはないと思う。そもそもサービスとして求めているものと提供されるものにズレがあるのだから、脳の病で構わない人以外は安易にメンヘラを自称すべきではないと思う。
「大森靖子」と「流星ヘブン」と「自殺」
この曲くらい自殺を現在で真剣に考えている人に直で響く曲はないと思うんだけど、あんま話題にならなかったなあ。
JOYSOUNDやDAMのカラオケランキングを見ても前の曲の方が余程歌われている。アルバム「MUTEKI」では一曲目に入っているが、この曲を目当てにアルバム買ったって人いるんだろうか。ファンの中ではどういうポジションを有している曲なのか気になるが、ツイッターとか追うのめんどい。
消えてしまう前の私に 一瞬でもいい 追いついて
引用:大森靖子「流星ヘブン」
極論すれば、自殺をしたいという気持ちは記憶の産物である。膨大な借金があるとか隠していた犯罪が露呈しそうで自殺したいとかは社会の問題なので話は別だが、社会的なリスクを負わないのであれば自殺をしたいという気持ちは記憶を更新しさえすれば変えられる可能性が高いものだ。だからこそ大森靖子は歌詞のように歌ったのだろう。これは非常に覚悟のいることだ。いくらポップスターといえども、自殺を考えている多くの人の気持ちを真っ直ぐに受け止めるなんてあまりにも辛すぎる。少なくとも自分には無理だ。カウンセラーであるからこそ、ネガティブな不特定多数の気持ちを真っ直ぐに受け止める辛さが痛いほど分かる。
口パクで愛してるなんて 誰でもいいならここにいて
引用:大森靖子「流星ヘブン」
彼女は続けて歌う。愛なんて決まった誰かから受けたいだけでは決してないのだ。ぶっちゃけあまりにも人生が辛いなら、最低限許容できる人でありさえすれば愛をくれるなら誰でもいい。だからこそ彼女は自殺するくらいなら自分を愛してと訴えるわけだ。私は彼女の姿勢を理解しようとすると涙が出そうになって辛くなるからあんまり深く理解しようとは思わないけれど、 彼女のような存在がこの世に一人でもいて、それを自殺を考えざるを得ないような人たちが認識するだけでもいくらか救われることをもっと世の中の人は訴えてほしいと思う。だって、彼女を知れば死ななくても済む命があるかもしれないのだから。彼女の影を追う人生の素晴らしさを分からないまま死ぬなんてあまりにももったいない気がするから。
「流星ヘブン」に限らず、彼女の曲は人生に追い詰められた人たちの気持ちを生へと向かわせる魂がこもっている。人生にネガティブな感情しか持てない人たちはもっと彼女を理解するべきだ。
カウンセリングは社会と戦うための手段ではない
カウンセリングというとどのようなイメージを思い浮かべるだろうか。心理学なんかを学んでいて、技法としてカウンセリングのことを体系的に学んでいる人ならばともかく、ほとんどの人は苦しい気持ちをカウンセラーに打ち明けて、不安を解消するためにあると思っているんじゃないだろうか。
それはそれで全く正しい。特に引きこもりや自殺など、若年者が社会的に逸脱することが問題となりがちな昨今、不安をカウンセラーに打ち明けることが当人にとっての不安の解消に繋がり、それが社会からの逸脱に繋がるのであれば大いに活用するべきだ。ただ、実際にそのように有効にカウンセリングが活用されている例ってそんなに多くないんじゃないだろうか。
例えばいじめにあっている高校生がカウンセリングを利用するとする。当人にとっての喫緊の不安はもちろんいじめにあうことによる精神的・肉体的なストレスだ。いじめにあうことは当然辛い。クライアントはカウンセラーにどのようにいじめにあい、どのように辛いかを打ち明ける。そのときのカウンセラーの対応はまちまちだろうが、いじめにあっている高校生の気持ちを逆なでするようなことを言うようなカウンセラーはほぼいないだろう。辛いだろうという気持ちに寄り添いカウンセリングを行うはずだ。中にはこのようにした方が良いというアドバイスを授けるカウンセラーもいるだろう。
ただカウンセリングという非日常の中でいじめの告白をいかに具体的にし、その中で不安の解消ができたとしてもいじめはなくならないだろう。カウンセリングはいじめをなくすものではない。ただいじめにあっている悔しさに対して心情的に寄り添うくらいのことしかできない。
それはもちろんいじめにあっている人からすれば救いになるだろう。何せいじめられっ子のほとんどは自分の気持ちを打ち明ける相手すらいないからだ。カウンセラーがただ気持ちに寄り添ってくれるだけでも全然違う。しかしいじめはなくならない。もしかしたらカウンセリングを利用していなければいじめを受け続けることなくとっとと引きこもるなりしていじめの被害を回避していたかもしれないのに、カウンセリングで中途半端に元気をもらうことでいじめに中途半端に相対し、結果いじめられ続けることになってしまう。このような事例は少なくない。これは本当に当人にとってカウンセリングは役に立っているのだろうか。オオカミの檻の中に放り込まれる餌になることが分かっているとしたら、オオカミの餌にむざむざなる必要はない、ということが唯一の適切なアドバイスかもしれないのに?
このように考えると、むしろカウンセリングなど受けずに被害からさっさと逃げてしまった方がいいのではないかと思うのだ。引きこもってからカウンセリングを社会との接点に使うというのなら有効だが、社会と立ち向かう手段としてカウンセリングを利用するというのは誰のためにもならない気がする。カウンセラーとしても傾聴くらいしか技術的に使えることなんてないだろうし。いじめなんて基本いじめられっ子はどうしようもないのだから、逃げるしかない。戦う手段としてカウンセリングを活用しても、被害を増すだけだ。このような場合、カウンセリングは絶対に有効とはいえないと考える。
カウンセリングは魔法なのか
カウンセリングで誰かの悩みを解消する、なんてのはある種魔法のようなものなのかもしれない。だって誰もが人に自分何らかの悩みを伝え、それに対する回答をもらうことなんて当たり前にやっているのだから。
しかしそれでも多くの方がカウンセラーを頼る。それは私に限らず日本中で、否、世界中でいまやありふれた光景だ。そしてカウンセラーに不満を覚える人も中にはいるが、大体の人はカウンセリングを継続するかどうかは別として、それなりにすっきりとした顔をして帰路につく。クライアントの安心を体感できるひとときは、カウンセラー冥利に尽きる瞬間でもある。
だからこそ、カウンセラーとして、自身をどうにかしたい、悩みを相談したいと考えているクライアントに対しては、自分の出来る限りのことをしてその後の人生に役立ててもらえればと常日頃考えている。
私が役立てることなんてそれくらいだし、それくらいのことが誰かの役に立つのなら、私もまたひとときの満足感が得られるから。
カウンセリングは魔法ではなく技法に過ぎないけれど、魔法だと感じてもらえるくらいに誰かの人生の足しになるのなら、せめて存分に覚えて技法を振舞わせていただく。おもてなしを第一義とし、毎日厨房に立つシェフのように。
今週のお題「もしも魔法が使えたら」