雑に記す

雑記です。

カウンセリングは社会と戦うための手段ではない

カウンセリングというとどのようなイメージを思い浮かべるだろうか。心理学なんかを学んでいて、技法としてカウンセリングのことを体系的に学んでいる人ならばともかく、ほとんどの人は苦しい気持ちをカウンセラーに打ち明けて、不安を解消するためにあると思っているんじゃないだろうか。

 

それはそれで全く正しい。特に引きこもりや自殺など、若年者が社会的に逸脱することが問題となりがちな昨今、不安をカウンセラーに打ち明けることが当人にとっての不安の解消に繋がり、それが社会からの逸脱に繋がるのであれば大いに活用するべきだ。ただ、実際にそのように有効にカウンセリングが活用されている例ってそんなに多くないんじゃないだろうか。

 

例えばいじめにあっている高校生がカウンセリングを利用するとする。当人にとっての喫緊の不安はもちろんいじめにあうことによる精神的・肉体的なストレスだ。いじめにあうことは当然辛い。クライアントはカウンセラーにどのようにいじめにあい、どのように辛いかを打ち明ける。そのときのカウンセラーの対応はまちまちだろうが、いじめにあっている高校生の気持ちを逆なでするようなことを言うようなカウンセラーはほぼいないだろう。辛いだろうという気持ちに寄り添いカウンセリングを行うはずだ。中にはこのようにした方が良いというアドバイスを授けるカウンセラーもいるだろう。

 

ただカウンセリングという非日常の中でいじめの告白をいかに具体的にし、その中で不安の解消ができたとしてもいじめはなくならないだろう。カウンセリングはいじめをなくすものではない。ただいじめにあっている悔しさに対して心情的に寄り添うくらいのことしかできない。

 

それはもちろんいじめにあっている人からすれば救いになるだろう。何せいじめられっ子のほとんどは自分の気持ちを打ち明ける相手すらいないからだ。カウンセラーがただ気持ちに寄り添ってくれるだけでも全然違う。しかしいじめはなくならない。もしかしたらカウンセリングを利用していなければいじめを受け続けることなくとっとと引きこもるなりしていじめの被害を回避していたかもしれないのに、カウンセリングで中途半端に元気をもらうことでいじめに中途半端に相対し、結果いじめられ続けることになってしまう。このような事例は少なくない。これは本当に当人にとってカウンセリングは役に立っているのだろうか。オオカミの檻の中に放り込まれる餌になることが分かっているとしたら、オオカミの餌にむざむざなる必要はない、ということが唯一の適切なアドバイスかもしれないのに?

 

このように考えると、むしろカウンセリングなど受けずに被害からさっさと逃げてしまった方がいいのではないかと思うのだ。引きこもってからカウンセリングを社会との接点に使うというのなら有効だが、社会と立ち向かう手段としてカウンセリングを利用するというのは誰のためにもならない気がする。カウンセラーとしても傾聴くらいしか技術的に使えることなんてないだろうし。いじめなんて基本いじめられっ子はどうしようもないのだから、逃げるしかない。戦う手段としてカウンセリングを活用しても、被害を増すだけだ。このような場合、カウンセリングは絶対に有効とはいえないと考える。